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(2021/6/28) 世田谷区豪徳寺の『旧尾崎行雄邸』は"尾崎行雄"とは関係ない ※2021年8月12日改稿・2022年4月5日改稿・2024年3月1日ちょこっと赤字で追加改稿

 結論から書く。尾崎行雄との関係は無い。あの館は旧尾崎三良男爵邸であるらしい…確実なことは旧尾崎洵盛男爵邸である。尾崎尾崎行雄が残した膨大な史料の中にあの洋館についての記述は無い。尾崎テオドラとの関係も殆ど無いだろう。

 今(2021年6月)、保存運動で話題の、世田谷区豪徳寺にある旧尾崎行雄邸は、明治・大正・昭和にわたって活動し「憲政の神様」と呼ばれた政治家尾崎行雄(1858-1954)が住んでいたとされている。関係者は、主語をぼやかして、”この町では「尾崎行雄から譲り受けた」と伝わっており”などと主張しているが、前持ち主が1985年にある誌面で次のように述べている。

「昭和8年麻布の、笄町より移築した。憲政の父と呼ばれた尾崎咢堂が外国人女性のために建てたものを、【前所有者】さんの祖父(英文学者)が8,000円で購入した。」

 前持ち主自身の言葉ではっきりと由来が語られているのに、今の関係者は史料を無視している。関係者たちは、「今後の研究や史料の発見を待ちたいと思います。」と書いているが、最近、この案件を研究したのは、数年前、文化財保護を打診され調べた世田谷区の文芸員と、物好きな乃公くらいだろう。調べれば調べるほど何も出てこないのだから、あの洋館が尾崎行雄邸でいたい人々はけして調べることはない。そして、史料が発見されることも未来永劫ない。住んで居なかったのだから。

 今、世間には世田谷区豪徳寺の『旧尾崎行雄邸』について2つの説がある。
[1]1907年、尾崎行雄が再婚した妻、英国育ちの英子テオドラ(1870-1932)のために、麻布区笄町173に洋館を建てた(広く流布されている説)
[2]1888年、英国育ちの英子テオドラのために建てた洋館 。現住所近隣では「尾崎行雄から譲り受けた」と伝わっている。(クラウドファンディングでの記述)

 [1][2]どちらも、その出典となる一次史料二次史料が不明なので、その出所についても調べてみた。

 私は[1][2]ともに否定する。あの洋館に尾崎行雄は関係していない。

 [1]は建築主、建築年、建築場所すべてありえない。[2]についても蓋然性に乏しい。英子テオドラの父、尾崎三良が1887〜1888年に麻布区六本木町の尾崎三良邸内に洋館を建設した史実を一次史料で確認したが、”テオドラのために建てた”については推論の域を出ない。前家主は先祖の英文学者が「尾崎行雄から譲り受けた」と主張しているが、証拠は無く口伝のみである。おそらく子孫の勘違いであろう。(なお、英文学者と名を伏しているのは、この洋館を主題に漫画を書いている山下和美氏の『世田谷イチ古い洋館の家主になる』においても伏せてあることに倣う。)

 主要人物の関係図を以下に示す。

 私は各種史料を検討した結果、新たな由来[3を提案する。[3もまた、尾崎行雄は関係していない。


[31887-1888年に、尾崎三良(1842-1918)が麻布区六本木に建てた洋館である可能性が高いその洋館の設計者は小金井三之助。しかし[1]説での"1907年建築説"で考えると別の洋館である。(閉鎖登記簿まで調べれば移築前の建物について分かるだろうが、私はそこまで調べていない。)1932年頃、英文学者(1869-1945)が尾崎洵盛男爵(1880-1966)から購入し、1933年に今の場所へ移設した。

 尾崎三良(おざきさぶろう)とは、幕末、明治の官僚、政治家。幕末、三条実美の側近として活躍。慶応4(1868)年-明治6年(1873年)英国へ留学。留学中、下宿先の語学教師ウィリアム・モリスンの娘バサイアと結婚、3女をなす。その長女が後に尾崎行雄に嫁いだ英子テオドラである。尾崎三良と尾崎行雄は同じ尾崎姓であるが、血の繋がりは無い。

 洋館を購入した英文学者(1869-1945)の子孫が尾崎男(男爵の略)を有名人、尾崎行雄と勘違いしたのだろう。その論拠として、山下和美(2021)『世田谷イチ古い洋館の家主になる』第五話より引用した元家主の資料画像を示す。 (おそらく写真画像を加工。)

麻布六本木尾崎邸 昭和七年八月九日■(写?) と読める。


 私が世田谷区豪徳寺の『旧尾崎行雄邸』は"尾崎行雄"とは関係ないと主張するのは以下の理由による。

(1)尾崎行雄が洋館について記述した史料が存在し無い、英文学者の家に伝わる口伝以外全く無い。

(2)旧尾崎行雄邸跡とされている場所は館を購入した英文学者がかつて住んでいた場所である。

(3)豪徳寺の青い洋館は旧尾崎三良男爵邸の洋館である可能性が高い。確実なのは旧尾崎洵盛男爵邸である。

(4)旧尾崎三良男爵邸洋館は父が娘、英子テオドラのために建てた・譲り渡した説は想像に過ぎない。英子テオドラの史料からは洋館に居住した形跡は無く、譲渡された可能性も限りなく低い。


(1)尾崎行雄が洋館について記述した史料が無い、英文学者の家に伝わる口伝以外全く無い。

 私は尾崎行雄(咢堂)関連書籍を、咢堂自伝を含めて図書館に籠もって複数読んだ。麻布区、洋館、笄町、まったくカスリもしないのだ。例えば、尾崎行雄が昭和4年に著した『咢堂漫談』という本がある。咢堂の一次史料である。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1443620
「私は、明治三十四年ころから、澤庵和尚の住んだ跡へ建てた破屋を借り受け、(其頃は化物屋敷などなど稱へ、誰も住人がなかった)昨年(昭和三年)の末まで住んでゐた。」尾崎行雄(1929)『咢堂漫談』(日本評論社)388pより引用 西暦に治すと1901年から1928年末まで、尾崎行雄は"品川邸"と称される北品川の借家に住んでいたのである。

 もう一つ、咢堂の一次史料として、尾崎行雄(2016)『民権闘争七十年 咢堂回想録』 (講談社学術文庫)、元は1952年読売新聞社にて刊行された書『民権闘争七十年』の文庫である。
「テオドラは十七、八のころ父を頼って日本へ来た。しかし風俗習慣の相違から父の家にいることを好まず、別居して慶應義塾幼稚舎の英語教師やその他の家庭教師などをしていた。そのうち英国公使フレーザー夫人に知られ、その愛護を受け、のちには夫人の秘書となって各国を漫遊し、イタリアには夫人とともに二年余も住んでいた。テオドラは夫人に勧められて著述に志し、数種の書物と出版した。イギリス育ちの婦人を妻にしてから、私の家庭生活には西洋風が取り入れられたことはいうまでもないが、私が妻に感謝しているのは、妻が私の健康に留意し、住居や食物に注意してくれたことである。私が毎年軽井沢へ行くようになったのも妻に勧められたからであるし、北品川から、いま住んでいる[逗子の]風雲閣へ移ったのも妻の意見にしたがったのである。」同著204pより引用)
 両書とも、麻布区、笄町、洋館について触れている箇所は見つからなかった。『咢堂自伝』も同じである。他にも二次史料を複数ざっと読んだが、見つからないのである。軽井沢とは、1914年に尾崎行雄が建てた莫哀山荘である。購入資金は東京市長(1903年-1912年)の退職金だったと自著で述べている。1907年、尾崎行雄が麻布区に洋館の自邸を購入したとは、資金的に想像しにくい。

 尾崎行雄と英子テオドラの子、雪香(1912-2008)はのちに相馬家へ嫁ぎ、相馬雪香として国際NGO難民を助ける会の創設者となった。相馬雪香の本、大西大美(2002)『心の開国を 相馬雪香の90年』(中央公論社) において、品川邸の話が出てくる。
「雪香が生まれた家も、品川区内に見つけたそんな「お化け屋敷」のひとつだった。雪香は、この「お化け屋敷」と山荘のある軽井沢を往復しながら育った。」同書22pより引用)
 相馬雪香が存命中の刊行であるので、本人のチェックの入った一次史料に近い二次史料とみなしていいだろう。ここにもあの洋館の記述は無い。

 念の為、図書館で二次史料として朝日新聞のデータベース”聞蔵II”と、読売新聞”ヨミダス歴史館”で、尾崎行雄、咢堂、麻布区、テオドラ、セオドラ、笄町、洋館、他、考えられるワードで検索しまくった。
 大森邸、品川邸、軽井沢の莫哀山荘、逗子の風雲閣は検索結果に出てくる。しかし、麻布区、笄町、洋館、青い洋館は見つからないのだ。これはネガティブアプローチではなく、そこに存在したと仮定したポジティブな検索をしてでも出てこないのだ。
 そもそも、尾崎行雄は1903-1912年にかけて東京市長だった当時の超有名人。もし、あの場所に、青い、もしかしたら当時は別の色だったかもしれないが通りに面した洋館に住んでいたのなら、必ず周囲の人の記憶に残るだろう。27年間住んでいた品川周辺には多くの尾崎夫婦、子女らの逸話が残されている。乗馬好きで子供もポニー(朝鮮馬と咢堂は記述)に乗せて周辺を散歩していたとか。しかし、笄町には、あるいわ麻布区にも、そうした話が残されていないのである。

 他にも、尾崎行雄の軽井沢の別荘、莫哀山荘の管理について、初代新軽井沢郵便局長市村一郎へ届けられた、大量の郵便、電報が残されている。一部公開されているが、麻布区から笄町から発信したものは見つからない。主に品川、逗子の風雲閣、池の平の楽山荘からなのだ。
https://sagamiharacitymuseum.jp/wp-content/uploads/2015/06/3931c64c5bd4e92acfb3a3609b945680.pdf
土井 永好(2014)『長野県軽井沢町・市村家所蔵尾崎行雄(咢堂)関係資料所在調査報告』相模原市立博物館研究報告,(22):13-33,Mar.31.2014


(2)旧尾崎行雄邸跡とされている場所(2021年8月に削除)は館を購入した英文学者がかつて住んでいた場所である。

 2021年に広く流布していた定説[11907年、尾崎行雄が再婚した妻、英国育ちの英子テオドラ(1870-1932)のために、麻布区笄町173に洋館を建てた についてだが。その場所は今、グーグルマップで 尾崎行雄邸跡(東京都港区南青山7-10-7)と表示されている(2021年8月に記載は削除されていました)。

 では今、尾崎行雄邸跡とグーグルマップに表示される場所(されていた場所)とは何か?1912年の地図を以下に、続けて今の地図を示す。現在は更地である(参考までに更地前、2017年のストビュー)


東京市区調査会(1912)『東京市及接続郡部地籍地図. 上卷』より引用
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966079


 麻布区笄町173には洋館を買った英文学者の名前がある。ちなみに東隣の笄町172は寺内正毅伯爵(1852-1919)邸、南側の174は黒岩周六(涙香)。本当にこの場所に青い洋館が存在していたのか?
 英文学者(1869-1945)は上総国佐倉の出、1875年笄町に家が移ったとの記録がある。(wikiの該当する方のページ参照、子息の昆虫学者の方が書かれた年譜で一次史料ですが私は原本を確認しておりません)。英文学者の子は高名な昆虫学者で1910年に笄町で生まれたとある(wiki参照)。笄町に青い洋館1888年説、1907年説、どちらもありえないのではないか。購入者の住所を尾崎行雄邸があった場所と勘違いしているのである。

 1907年建築の根拠は未だ不明だが、昭和60年(1985年)に英文学者の孫にあたる人物がある小冊子の取材に答える形式で洋館を紹介した史料がフェイスブックの旧尾崎行雄邸保存プロジェクトのページにある。クラウドファンディングでの記載では”現住所近隣では「尾崎行雄から譲り受けた」と伝わっている”と何故か主語をぼやかした表現をしているが、その出どころは館を購入した英文学者側である。きちんと史料に基づいて記載したほうがよいと思う。
https://www.facebook.com/ozakiyukiohouse/photos/pcb.125650059216859/125643585884173/

(2)1907年尾崎行雄が建てた説は建築年、建築場所、建築主、いずれも間違いである。ただし1907年築説については何らかの根拠があったのではないか?


(3)豪徳寺の青い洋館は旧尾崎三良男爵邸の洋館である可能性が高い。

 では、あの洋館は何なのかといえば、山下和美(2021)『世田谷イチ古い洋館の家主になる』第五話より引用した元家主の資料画像の通り、麻布区六本木 尾崎男邸 なのである。

 この尾崎男邸とは、昭和七年八月九日当時は尾崎洵盛男爵(1880-1966)邸である。尾崎洵盛男爵邸は先代の尾崎三良男爵が1886年麻布区六本木に購入した2261坪の敷地にあり、複数の館で構成されていた。洋館もその一部である。

 クラウドファンディングでは「1888年、英国育ちの英子テオドラのために建てた洋館 。現住所近隣では「尾崎行雄から譲り受けた」と伝わっていると記載している。
 誰が建てたのか、近隣に伝えたのは誰か、どちらも主語が抜けているので当方で補足すると、建築主は英子テオドラの父、尾崎三良であり、伝えたのは英文学者の子孫である。1907年築の場合でも建築主は尾崎三良男爵(男爵に叙されたのは1896年)であろう。尾崎三良は英国留学中、下宿先の語学教師ウィリアム・モリスンの娘、バサイアと1869年3月4日結婚し、1870年12月14日、英子テオドラ、1872年次女政子、1873年三女君子が生まれている。

 尾崎三良の一次史料として日記がある。尾崎三良(1980)『尾崎三良自叙略伝、上中下巻』(中公文庫)
 この本に六本木の邸宅について仔細な記述がある。
明治19年(1886年)8月2日「麻布六本木三十一番地、畑地宅合して二千二百六十一坪及び建屋二十六坪余を代金二千四百円にて田島為助より買得せり。是れ即ち今の邸地なり。」同書131pより引用)

 六本木町三十一番地の1912年の地図の尾崎三良の箇所拡大図、続けて北が上になるように地図画像を回転した図、今の地図を示す。1912年の地図で尾崎三良とある箇所は現在、港区六本木6-14、六本木アマンドの近く、2020年12 月31日までラーメン屋幸楽苑(クリックで2020年のストビュー開く)の在った処である。他の資料では尾崎三良邸住所として六十七番地、あるいわ材木町との記載もみられる。2260坪とあるので、合わせて広く土地を取得したのであろう。

東京市区調査会(1912)『東京市及接続郡部地籍地図. 上卷』より引用
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966079

googlemap

同年10月30日「従四位に叙せらる。予四十五歳。又此頃新たに購ひ得たる麻布六本木の地所へ住宅を新築せんと欲し、大工の棟梁小金井三之助、宮内省営繕方田辺徳二郎等と其設計の相談を為す。」同書134pより引用)

明治20年(1887年)5月29日、英子テオドラ来着、おそらく内幸町の尾崎三良邸に到着、翌日、白金猿町の米国人女教師宅に月25円で「暫く同人方に寄宿せしむ。」同書145pより引用)

同年6月16日「東京の大工小金井三之助には洋館并びに其付属家建築の事を請負はじめ、名古屋の大工柴田梅次郎には名古屋の材木商服部小十郎の代理とし日本家建築の事を請負はしめ、是より着工して本年中に落成せしむるの契約書を為し、請負金の内若干金を渡す。其後梅次郎不当のことを言ひたるより、梅次郎を除き服部小十郎と直接の契約と為す。田辺徳二郎へ其監督を依頼す。」同書146pより引用)

 この洋館の設計者は、大工の棟梁、小金井三之助の可能性が高い。実際、現存する洋館の作り、特に屋根をみれば、明治初期に流行した擬洋風建築のようなのである。そして、洋館并びに其付属家とあるように、洋館自体は独立した離れ、ゲストハウスのような建物であったのではないだろうか。現存する建屋の西側、炊事場や風呂、東側の玄関、トイレは後に改築増築されたもので、竣工当時は付属家ありきで成り立つ館構造であったように思う。

同年7月8日「英子を桜井家に預ける。時に年十七歳。是は桜井の望に依り、米国女教師の家より一旦内に引取り桜井へ移住せしむるなり。是頃は英語に、舞踏に、専ら英国流を模倣することが流行と為り、桜井は其便利を得んがためと推察せられたり。」同書146pより引用 なお、のちに刊行された『尾崎三良日記』では18日)

翌明治21年(1888年)2月21日、内幸町から麻布区六本木の新邸へ引っ越し。

同年6月25日に「麻布新邸建築披露会を催す」とある。(同書179p参照)伊藤博文他錚々たる面々、全15名で「二階広間に於て宴会を催す。赤坂より芸妓大小七、八名、歌舞鯨飲放歌頗る盛宴なり。」同書180pより引用)この二階広間とは、広さと収容人員から推測するに現存する豪徳寺の洋館では狭すぎる。同時期に建設した日本家建築の2階と見るのが妥当であろう。

 なお、尾崎三良自叙略伝にテオドラの母についての記述はまったくない。其の点について、下巻のあとがきに孫の尾崎春盛が考察を入れている。尾崎三良として触れられたくない過去だったのだろうと。


(4)旧尾崎三良男爵邸洋館は父が娘、英子テオドラのために建てた・譲り渡した説は想像に過ぎない。英子テオドラの史料からは洋館に居住した形跡は無く、譲渡された可能性も限りなく低い。

 一部の人は、尾崎三良男爵が娘、英子テオドラのために洋館を建てたと主張している。まったく証拠の無い推論であるし、故人のココロ内のことなので検証しようが無い。仮にそうだったとしても、問題は英子テオドラが、洋館に居住していたかであろう。私は無いと考える。尾崎三良自叙略伝に英子テオドラが洋館に関わった記述は無い。

 英子テオドラ側からの視点、一次史料ではないが、半生をまとめた論文がある。
長岡祥三(1996)『尾崎行雄夫人セオドーラの半生』英学史研究 1996(28), 57-71, 1995
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1996/28/1996_28_57/_pdf
同論文を元にその後の英子テオドラについて以下に記す。
同年11月14日、英子テオドラ、桜井家から尾崎家へ戻る。
同年11月16日、尾崎三良、英子テオドラを伴い芝栄町聖アンデレ教会のショウ牧師を訪ねる。
同年12月29日、ショウ牧師夫人より英子テオドラを預かりたいと申し出、尾崎三良承諾。以降、英子テオドラは芝栄町聖アンデレ教会牧師館に寄宿。ちなみに1905年に尾崎行雄との結婚式を行った教会である。
翌明治22年(1889年)3月31日、尾崎三良がショウ牧師からの教師として雇用したい申し出を了承、以降、英子テオドラ英語教師になる。その後、明治24年(1891年)に英国公使秘書として雇われ英国大使館住みとなり、明治28年(1895年)から明治32(1899年)まで海外在住、帰国後明治35年(1902年)まで慶応幼稚舎の英語教師を勤めた。

 英子テオドラが洋館に留まっていたとは、想像しにくい内容である。

 尾崎行雄と英子テオドラの娘、相馬雪香は大西大美(2002)『心の開国を 相馬雪香の90年』(中央公論社) において、次のように証言している。

「母が十六歳になった頃、尾崎三良は、英国にいる子どもたちを日本に引き取ることにことになり、母は単身、日本の父のもとにやって来ました。しかし、母は、日本の生活にもなじめず、父の家を離れて独立し、慶應義塾や頌栄女学院で教えたり、英国公使のフレイザーの奥さんの秘書になったりしていました。」(同書396pより引用)

 また、一部の人は英子テオドラが、尾崎三良男爵(1842-1918)から、洋館を相続されたと主張している。これについても私は無いと考える。

 当時、民法の規定で女性は妻とて財産権が大幅に制限されていた。さらに当時の家督相続は長男の単独相続主義で、他家に嫁いだ女子が不動産の一部を遺産相続するケースは考えづらい。しかも尾崎三良男爵の子女は12人(うち2名は英国在住)、それでも尾崎三良の意向にて遺贈が行われたと仮定してみる(しかも建屋だけ?土地は?地代は?)。財産権は夫である尾崎行雄となる。相続された1918年から移設された1933年までの15年間、洋館は誰が使用していたのだろうか?尾崎行雄、相馬雪香の一次史料からは、尾崎行雄一家が洋館を使用した形跡は一切見つからない。
 英子テオドラは昭和7年(1932年)12月28日、長患いの末ロンドンにて亡くなった。冒頭に掲載した画像(山下和美(2021)『世田谷イチ古い洋館の家主になる』第五話より引用)では、麻布六本木尾崎男邸 昭和七年八月九日■(写?) との記載がある。英子テオドラが無くなる4ヶ月前の記録なのである。

 想像してみて欲しい。尾崎行雄が27年連れ添った英子テオドラが大病を抱えている最中、妻の実家の敷地内にある、義父が英子テオドラのために建設した?遺贈した?洋館の売却話を進めるだろうか?

 しかも、写真の日、尾崎行雄は日本に居ない。1931年8月に渡米、そのまま12月に渡英、1932年はずっと英国で過ごしていた。尾崎行雄が帰国したのは1933年2月末である。尾崎行雄が日本不在の1年半、いったい誰が洋館売却話をすすめていたのだろうか。

 そもそも、尾崎行雄は複数の自著で、尾崎三良を政敵と記述している。

「英子(テオドラ)の父は尾崎三良男爵ですが、男爵は一時は井上毅子爵と並び称され、伊藤門下の逸材といわれた人です。この三良男爵は、何時も反政府の立場に立っていた私たちをいじめるための法律を作っていた人ですから私も政敵として時にその名を知っていました。」尾崎行雄『咢堂自傳』(1937)咢堂自伝刊行会 より引用。

 尾崎三良男爵が英子テオドラのために洋館を建てたと仮定しよう。1918年ないし以前に尾崎行雄・英子テオドラへ洋館の贈与があったと仮定しよう。そして1932年頃、尾崎行雄が代理人を建てて英文学者へ洋館を8000円で売却したと仮定してみよう。売却5年後に、尾崎行雄が自著で、尾崎三良に対し、このような記述をするだろうか?かつての政敵とはいえ、尾崎三良が英子テオドラのために洋館を建てた?、尾崎行雄・英子テオドラに洋館を遺贈した?ことに一切触れないのは、あまりにも不自然ではないか。『咢堂自傳』の刊行は、尾崎三良が鬼籍に入りて14年後である。尾崎行雄は故人の名誉を蔑ろにする、謝意も述べないような人物なのか。

 私は本能寺の変・真の犯人説や、義経ジンギスカン伝説、枚方市アテルイの塚のような、可能性はゼロではないレベルでの苦しい説明をしてきたが、これが歴史的な検証に堪えられるとは到底思えない。

 2024年3月1日、豪徳寺の洋館は、旧尾崎テオドラ邸という名でオープンしたが…尾崎三良男爵・尾崎盛男爵・尾崎行雄・尾崎テオドラ・娘の相馬雪香から、あの洋館とテオドラを結びつける話は見つからない。

 この仮定のシナリオについて、実際の歴史的背景や人物に即した具体的な事実は存在しないため、想像力に頼るしかない。1888年、仮に尾崎三良が英子テオドラのために洋館を建て、その洋館を「尾崎テオドラ邸」と命名することを彼女が許容できたかどうかは、彼女の人格、価値観、そして当時の社会的・文化的背景に大きく依存する。

 尾崎テオドラが父について殆ど記述していないこと、夫の政敵であったこと、イギリスの家族との連絡を禁じられていた時期があったこと、妻妾同居に対する拒否感、洋館居住実績が確認出来ないことなど、これらの事実は彼女の個性や彼女が置かれていた状況を反映している。これらの点を考慮すると、彼女が自身の名を冠した邸宅の命名を許容することは無いだろう。

 19世紀後半の日本においては、西洋の影響を受けた建築物が珍重され始めた時期であり、洋館は社会的地位の象徴ともなり得た。ただ、偶然、娘の来日と新居建築の中、洋館建築が重なっただけの可能性もあるのだ。


 私はあの洋館を34年前から知っている。始めて見たのは1987年4月、大学入学直後だった。以降、気になる家なので、付近を通るときはまだあるのかな?と寄り道して存在を確認、数年おきに見に行くお気に入りの建物だったのだ。お気に入りの建物だから、尾崎行雄の著書も読んでいたのだ。そして、ぼんやりと、洋館?住んでいたっけ?というあやふやな記憶が残った。2020年6月洋館が取り壊される危機に陥り、後に漫画家山下和美らが買い取った話はニュースで知っていた。そして、今年(2021年)はじめ、漫画家山下和美が『世田谷イチ古い洋館の家主になる』の連載を集英社の漫画雑誌グランドジャンプで開始した。

 私がこの件について調べようと思ったきっかけは、今年(2021年)6月13日(日)、約5年ぶりに洋館を見に行った時に感じた違和感だった。極めて些細なことなので詳細は述べないけど、家に帰ってからグーグルマップのストリートビューで2009年から見返して、その違和感が何なのかようやく気付いた。ああ、1987年から行くたびに感じていた凛とした雰囲気はこれだったのか。ちなみに2021年7月10日、10月10日にも見に行ったけど変化無し。私には、どこか諦めているように感じている。

 私の説は常識に対しての異論である。反証は大歓迎だ。尾崎行雄がかの洋館から出した書面(郵便、電報)なり、尾崎行雄からの譲渡書類、ないし揮毫等を示せば当方としてもモヤモヤした解釈がスッキリする。テオドラが住んでいた証拠もあるなら早めに公開したほうがいい。

 こういう話を否定することは、不存在の証明、悪魔の証明でして、信じている人を納得させるのは徒労に終わりかねない。ゆえにマトモな学者は手をつけたがらない。黙っていれば、ずーっとあの館は旧尾崎行雄邸と信じ続けられるであろう。おそらく学術的に検証されるのは文化財指定が検討され、公金で維持検討レベルになってからである。館を保存しようとする側が、もし疑義を自覚していたとしたら、積極的に歴史を検証しようとするわけがない。ましてや、何もないところに、新しい資料が出てくることなど、未来永劫ありえない。

 関係者の一部は知っているのだろう。2020年8月のある日から、ある人のツイッターから”尾崎行雄邸”が無くなり、”尾崎邸”に統一されている。確かに尾崎三良邸も尾崎邸で間違いは無いのだが、大多数の人は尾崎行雄邸だと信じて、保存活動の署名やクラウドファンディングをしている。

 他にも気付いている人はいるだろう。一般財団法人尾崎行雄記念財団は、WEBやtwitter@OzakiYukioにおいて、洋館保存運動とクラウドファンディングについて不自然なほど無反応なのだ。2022年に唯一、反応をしたのが、なぜ尾崎邸保存に世田谷区が動かないのか?について以下のツイートである。

 2019年頃、買取を検討した世田谷区の文化財担当も尾崎行雄と関係ないことに気付いているのだろう。さらに言えば、日本の洋館に詳しく著書や監修をしている洋館クラスタ界の重鎮たる面々が、この案件は総じてスルーしている。マトモなマニアゆえに手をつけようとしていないように私は思える。

 私がこの件でもっとも悲劇に思うのは、尾崎行雄がのこした膨大な書物について、誰も読んでいないことだ。自伝を読めば、かの館が出てこないことぐらい誰でも分かるというのに。

相田くひを 2021年6月28日記 8月12日改稿 2022年4月5日更に改稿、2024年3月1日改稿

 いえね…乃公もあの館残すのは大賛成よ。でも、歴史を捏造するのはやっちゃいかん…ましてや個人名称で(-_-;)

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